今日は占星術とはまったく関係ない、とても個人的な話。
後悔と無力さ、寂しさが入り混じった個人的な話。
今日のブログは自己満足と、そして、せめてもの償いのために書く。
昨夜ネットで、ジャズドラマーの豊岡豊が11月30日午前7時30分、左肺がんのため82歳で死去したというニュースを見つけた。
ショックだった。
私は2011年の冬、彼が入退院を繰り返していた頃、ある番組企画のインタビューをさせてもらっていた。
それは、結成60周年を迎えたビッグバンド「東京キューバンボーイズ」を復興させたいという思いで企画したものだった。
日本ポピュラー音楽シーンに大きな影響を与えたこのビッグバンドは、戦後間もない1949年、故見砂直照氏により設立された。
まだ、日本の音楽界にラテン音楽というジャンルが確立されていない時代。
日劇、ニューラテンクォーターなど、優雅なナイトクラブやダンスホールが全盛期を迎え、人々は遠い外国へと夢を馳せた。
東京キューバンボーイズは戦後の日本復興と共に、新鮮で華やか、力強く、美しいラテン音楽を届け、人々に希望と勇気を与えた。
しかし、ビッグバンドの衰退、カラオケ普及と時は流れ、多くのファンに惜しまれつつも1980年、東京キューバンボーイズはその活動に幕を下ろした。
その後、ファンの復活を望む声が高まり、2005年、東京キューバンボーイズは再び活動を開始。
しかし、多くのバンドメンバーたちは還暦を迎え、観客の多くは「階段を上がるのもやっと」の杖を要する高齢者たちだった。
「早くTVに取り上げてもらわないと、私たち、みんな死んじゃうよ」とメンバーからもファンからもプレッシャーを掛けられつつ、私はこの頃、彼らの音楽とともに過ごしていた。
私は、その中でも「日本の宝」と称されているボンゴ奏者・納見義徳氏に注目していた。
故見砂氏が死去する最後の最後まで、東京キューバンボーイズの顔であり、マエストロの片腕であり続けた男。
東京キューバンボーイズの洗練された音楽は、納見氏の華麗、かつダイナミックなボンゴ・テクニックなしでは語れないと言われていた。
彼の自宅は、世界各国から集めたたくさんのボンゴで埋め尽くされていたっけ。
その他、たくさんの方にご協力いただき、とても良い企画が出来上がってきたと思った矢先、震災が起こった。
予定されていバンド活動はキャンセルされ、体調を崩したメンバーもおり、プロデューサーに「ちょっと保留にしましょう」と言われたまま、私もこの仕事が忙しくなり、そのまま企画がうやむやになってしまったのだった。
先日亡くなられた豊岡氏は、東京キューバンボーイズの最高齢のドラマーであり、自らも「豊岡豊&ジョークリエントン」を結成していたこともある。
紅白歌合戦では3回バンドマスターとしてタクトを振り、石原裕次郎、いかりや長介とも交流があった。
自称「いい加減」ドラマー。
「あんまり一生懸命やりませんから、適当に聞いてください」と観客を音楽だけでなく、トークでも場を盛り上げる。
私が見させてもらったライブの時も、退院直後だったにも関わらず、ジョークを飛ばしながら演奏をしていた。
根っからのエンターテイナーだった。
「俺が生きているまでに、東京キューバンボーイズはTVに取り上げられるかね」と言っていたことを思い出す。
そうすることができなかった私の無力さと後悔。
だから、こうしてせめても微力ながら、今私のできる限りのつぐないをさせてもらいたい。
少しでも多くの人に、豊岡氏とキューバンボーイズのs知ってもらいたいと思う。
心からご冥福をお祈りします。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
老朽化による崩落事故。
人は誰かを犠牲にしなければ、その現実を知ることができない。
何かを失ってからでないと、その本当の意味に気付くことができない。
私は、それも海王星の働きだと思っている。
失うことによって、深い理解を得ること。
人間は愚かだね。
海王星・土星は、現実的に処理していかなければならないものの本質的な意味を教えてくれるだろう。
私も豊岡氏の死の本質的な意味に気付かなければならない。
みなさんは、どのような土星・海王星体験をしているのだろうか。
後悔と無力さ、寂しさが入り混じった個人的な話。
今日のブログは自己満足と、そして、せめてもの償いのために書く。
昨夜ネットで、ジャズドラマーの豊岡豊が11月30日午前7時30分、左肺がんのため82歳で死去したというニュースを見つけた。
ショックだった。
私は2011年の冬、彼が入退院を繰り返していた頃、ある番組企画のインタビューをさせてもらっていた。
それは、結成60周年を迎えたビッグバンド「東京キューバンボーイズ」を復興させたいという思いで企画したものだった。
日本ポピュラー音楽シーンに大きな影響を与えたこのビッグバンドは、戦後間もない1949年、故見砂直照氏により設立された。
まだ、日本の音楽界にラテン音楽というジャンルが確立されていない時代。
日劇、ニューラテンクォーターなど、優雅なナイトクラブやダンスホールが全盛期を迎え、人々は遠い外国へと夢を馳せた。
東京キューバンボーイズは戦後の日本復興と共に、新鮮で華やか、力強く、美しいラテン音楽を届け、人々に希望と勇気を与えた。
しかし、ビッグバンドの衰退、カラオケ普及と時は流れ、多くのファンに惜しまれつつも1980年、東京キューバンボーイズはその活動に幕を下ろした。
その後、ファンの復活を望む声が高まり、2005年、東京キューバンボーイズは再び活動を開始。
しかし、多くのバンドメンバーたちは還暦を迎え、観客の多くは「階段を上がるのもやっと」の杖を要する高齢者たちだった。
「早くTVに取り上げてもらわないと、私たち、みんな死んじゃうよ」とメンバーからもファンからもプレッシャーを掛けられつつ、私はこの頃、彼らの音楽とともに過ごしていた。
私は、その中でも「日本の宝」と称されているボンゴ奏者・納見義徳氏に注目していた。
故見砂氏が死去する最後の最後まで、東京キューバンボーイズの顔であり、マエストロの片腕であり続けた男。
東京キューバンボーイズの洗練された音楽は、納見氏の華麗、かつダイナミックなボンゴ・テクニックなしでは語れないと言われていた。
彼の自宅は、世界各国から集めたたくさんのボンゴで埋め尽くされていたっけ。
その他、たくさんの方にご協力いただき、とても良い企画が出来上がってきたと思った矢先、震災が起こった。
予定されていバンド活動はキャンセルされ、体調を崩したメンバーもおり、プロデューサーに「ちょっと保留にしましょう」と言われたまま、私もこの仕事が忙しくなり、そのまま企画がうやむやになってしまったのだった。
先日亡くなられた豊岡氏は、東京キューバンボーイズの最高齢のドラマーであり、自らも「豊岡豊&ジョークリエントン」を結成していたこともある。
紅白歌合戦では3回バンドマスターとしてタクトを振り、石原裕次郎、いかりや長介とも交流があった。
自称「いい加減」ドラマー。
「あんまり一生懸命やりませんから、適当に聞いてください」と観客を音楽だけでなく、トークでも場を盛り上げる。
私が見させてもらったライブの時も、退院直後だったにも関わらず、ジョークを飛ばしながら演奏をしていた。
根っからのエンターテイナーだった。
「俺が生きているまでに、東京キューバンボーイズはTVに取り上げられるかね」と言っていたことを思い出す。
そうすることができなかった私の無力さと後悔。
だから、こうしてせめても微力ながら、今私のできる限りのつぐないをさせてもらいたい。
少しでも多くの人に、豊岡氏とキューバンボーイズのs知ってもらいたいと思う。
心からご冥福をお祈りします。

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老朽化による崩落事故。
人は誰かを犠牲にしなければ、その現実を知ることができない。
何かを失ってからでないと、その本当の意味に気付くことができない。
私は、それも海王星の働きだと思っている。
失うことによって、深い理解を得ること。
人間は愚かだね。
海王星・土星は、現実的に処理していかなければならないものの本質的な意味を教えてくれるだろう。
私も豊岡氏の死の本質的な意味に気付かなければならない。
みなさんは、どのような土星・海王星体験をしているのだろうか。
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