子供の頃、マイペースな私に腹を立てた父が私に一言、「なぜ、お前はみんなと同じようにできないのか」と言った。
それに対し、私は「みんなって誰よ」と口答えしていたのを思い出す。
子供は子供で、こんな不満を親にぶつける。
「みんな持っているんだから、自分にも買ってよ」
こういった「みんな」の感覚を司っているのが社会天体「木星・土星」だ。
主に土星は、「30前にはなんとか結婚したい」「子供ができたら、そろそろ学資保険に入ろうかしら」「10年後には年金なんてもらえなくなるんだから、しっかり貯金していたほうがいいよ」とか、「まっとうな人間だったら、まあ、そうだろうなあ」と思わされてしまうような、安定した社会的立場の確立に役立つ「共通認識」の知恵(しきたり、ルール等)と、そのシステムについて教えてくれる。
土星の言うことを聞いていたら、社会人として恥をかくことはない。
土星が目に見えるかたちで働くシステム化のエネルギーだとしたら、木星は精神性のほうを担当している。
いわゆる倫理やモラルといった、道徳的な「善なる」思想を育てようと働く。
「中学生日記」「日本昔話」みたいな世界だ。
嘘をついたらいけない、年寄りは大事にしなくてはいけない、弱い者いじめはよくないなど。
健全なスピリットを育て、社会に善行を布教させていくのがその目的。
土星の社会的な義務と木星の社会的な道徳のふたつセットがあれば、立派な社会人が出来上がるというわけだ。
しかし、ここで忘れてはならないのは、土星、木星は私的天体ではなく社会天体、「非自己」の天体だということ。
つまり、土星や木星の求める価値観は、「私のもの」ではないのである。
ユングの言うペルソナ(社会に適応するため、社会的慣習や伝統的な精紳を個性化した人格=仮面をペルソナと名づけた)、フロイトの言う超自我(ルール・道徳観・倫理観・良心・禁止・理想などを自我と無意識に伝える機能を持つ)に近い。
木星、土星に取りつかれた人々は、中年の危機(トランスサタニアンのアタック)以降「私は何者か?」で悩み始める。
昔は村の長老たち――祖父さん、祖母さん、坊さん、校長先生といった大人たちが土星、木星を担当していたのだろう。
大それた夢を見ることもなく、かといってそれに大きな疑問を感じることなく、自分たちの身の丈、持ち分の中で人生を全うした。
しかし、時代は刻々と変わっていく。
トランスサタニアン発見とともに、土星、木星に与えられた役割は変わっていった。
天王星の自由や公平さを求める声が大きくなると同時に、土星は保守的で退屈、加齢臭のする疫病神のような扱いを受けることになり、高度成長期の勢いとともに、木星は「社会的報酬」を追い求める競走馬のような終わりなき焦燥感のエネルギーとなった。
ここで、木星のこの「社会的報酬」について考えてみたい。
私ほど木星の悪口を言う占星術講師は、きっといないと思うけど、じゃあ一体、社会的報酬の「報酬」というのは何だろう。
高学歴を手に入れること?
お金持ちになること?
名声を得ること?
社会的地位を上げること?
よい結婚、よい子宝に恵まれること?
そういうのを丸ごと一緒にして「社会的報酬」と考えられているのだとしたら、それはどこから、誰からやってきたものだろうか?
母親の思惑か、父親の教育か。
つまり木星の「幸福」とは、社会の共通認識の中で「きっとこういうことが幸福なのだろう」と思われているだろうこと。
決して、それが「私」の欲求と同じではないかもしれないということだ。
そして、社会天体の価値観は日々変わっていく。
今日の報酬は、明日の報酬とは限らない。
だから、ひとまず「私にとって何が報酬か?」と問いかけてみないと、冒頭に書いた「みんなが持っているのに、自分は持っていない!」という感覚に取りつかれ、終わりのない「幸せ探し」のドツボにハマることもある。
あ、もちろん木星が適正に働けば、健やかな成長が望めるよ。
自分の信じる道を信念を持って突き進むことができる。
高い志を持ち、向上し、発展することもできる。
それが土星に落とし込めれば、社会的に安定した地位を確立できるだろう。
長くなったけど、明日11時からは勉強会です。
前回はミッドポイントで盛り上がりましたが、明日は、心理と医療の講座になります。
花粉症等で体調壊していないかしら?
では明日、お待ちしてます!
それに対し、私は「みんなって誰よ」と口答えしていたのを思い出す。
子供は子供で、こんな不満を親にぶつける。
「みんな持っているんだから、自分にも買ってよ」
こういった「みんな」の感覚を司っているのが社会天体「木星・土星」だ。
主に土星は、「30前にはなんとか結婚したい」「子供ができたら、そろそろ学資保険に入ろうかしら」「10年後には年金なんてもらえなくなるんだから、しっかり貯金していたほうがいいよ」とか、「まっとうな人間だったら、まあ、そうだろうなあ」と思わされてしまうような、安定した社会的立場の確立に役立つ「共通認識」の知恵(しきたり、ルール等)と、そのシステムについて教えてくれる。
土星の言うことを聞いていたら、社会人として恥をかくことはない。
土星が目に見えるかたちで働くシステム化のエネルギーだとしたら、木星は精神性のほうを担当している。
いわゆる倫理やモラルといった、道徳的な「善なる」思想を育てようと働く。
「中学生日記」「日本昔話」みたいな世界だ。
嘘をついたらいけない、年寄りは大事にしなくてはいけない、弱い者いじめはよくないなど。
健全なスピリットを育て、社会に善行を布教させていくのがその目的。
土星の社会的な義務と木星の社会的な道徳のふたつセットがあれば、立派な社会人が出来上がるというわけだ。
しかし、ここで忘れてはならないのは、土星、木星は私的天体ではなく社会天体、「非自己」の天体だということ。
つまり、土星や木星の求める価値観は、「私のもの」ではないのである。
ユングの言うペルソナ(社会に適応するため、社会的慣習や伝統的な精紳を個性化した人格=仮面をペルソナと名づけた)、フロイトの言う超自我(ルール・道徳観・倫理観・良心・禁止・理想などを自我と無意識に伝える機能を持つ)に近い。
木星、土星に取りつかれた人々は、中年の危機(トランスサタニアンのアタック)以降「私は何者か?」で悩み始める。
昔は村の長老たち――祖父さん、祖母さん、坊さん、校長先生といった大人たちが土星、木星を担当していたのだろう。
大それた夢を見ることもなく、かといってそれに大きな疑問を感じることなく、自分たちの身の丈、持ち分の中で人生を全うした。
しかし、時代は刻々と変わっていく。
トランスサタニアン発見とともに、土星、木星に与えられた役割は変わっていった。
天王星の自由や公平さを求める声が大きくなると同時に、土星は保守的で退屈、加齢臭のする疫病神のような扱いを受けることになり、高度成長期の勢いとともに、木星は「社会的報酬」を追い求める競走馬のような終わりなき焦燥感のエネルギーとなった。
ここで、木星のこの「社会的報酬」について考えてみたい。
私ほど木星の悪口を言う占星術講師は、きっといないと思うけど、じゃあ一体、社会的報酬の「報酬」というのは何だろう。
高学歴を手に入れること?
お金持ちになること?
名声を得ること?
社会的地位を上げること?
よい結婚、よい子宝に恵まれること?
そういうのを丸ごと一緒にして「社会的報酬」と考えられているのだとしたら、それはどこから、誰からやってきたものだろうか?
母親の思惑か、父親の教育か。
つまり木星の「幸福」とは、社会の共通認識の中で「きっとこういうことが幸福なのだろう」と思われているだろうこと。
決して、それが「私」の欲求と同じではないかもしれないということだ。
そして、社会天体の価値観は日々変わっていく。
今日の報酬は、明日の報酬とは限らない。
だから、ひとまず「私にとって何が報酬か?」と問いかけてみないと、冒頭に書いた「みんなが持っているのに、自分は持っていない!」という感覚に取りつかれ、終わりのない「幸せ探し」のドツボにハマることもある。
あ、もちろん木星が適正に働けば、健やかな成長が望めるよ。
自分の信じる道を信念を持って突き進むことができる。
高い志を持ち、向上し、発展することもできる。
それが土星に落とし込めれば、社会的に安定した地位を確立できるだろう。
長くなったけど、明日11時からは勉強会です。
前回はミッドポイントで盛り上がりましたが、明日は、心理と医療の講座になります。
花粉症等で体調壊していないかしら?
では明日、お待ちしてます!
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