たまには日本語の表現を見直そうと、久しぶりに小林秀雄の評論集を手に取ってみた。
三島由紀夫が「芸術」と評した彼の文章は、ネットの記事に慣れてしまった私の目に、とても新鮮で、とても重みがあるものとして映った。
すべての文章に無駄がなく、クソ暑い夜の読書にはふさわしくないほど濃密だ。
「モーツアルト」の章に、こんなことが書かれていた。
反動というものには、いつも相応の真実はあるのだろうが―――無用な装飾を棄て、重い衣装を脱いだところで、裸になれるとは限らない。何も彼もあまりたくさんのものを持ち過ぎたと気がつく人も、はじめから持っていなかったものには気がつかぬかも知れない。
これは、古き良き時代に帰るべきだという人たちの言い分を批判した文章であったが、なるほど、そういう考えもあったかと唸ってしまった。
時代は流れている。
昔は良かったと懐かしんでみても、果たして実際、私たちは何かを手にしていたのかどうか。
先日、渋谷駅前でどこかの大学生たちが「私たちに欠けてしまっているのは日本人としての自信です。今こそ、私たちは自信を取り戻さなくてはいけません」と大演説をやっていたが、私にそんなものがあったのかどうか。
はじめから、そんなものは持っていなかったのではないだろうか。
私たちは、未来に対する可能性とか、潜在的な能力とか、幸福になるための術とか、存在しているのかどうかわからないものをムキになって信じ込もうとしているふしがある。
断捨離などもそうだ。
断捨離とは、不要な物などを減らし、生活や人生に調和をもたらすというものだが、今は言葉だけがひとり歩きし、物を捨て、身軽になったら、人生が勝手に変わっていくような、そういう印象を持っている人が多い。
実際、物を手放せば、一時的に気分が軽くなることはあるだろう。
けれど、はじめから持っていなかったものが手に入るわけではない。
それに気づかず、新しい流れを作ろうと必死になったところで、すぐにまた次の壁がやってくることだろう。
ならば、「はじめから持っていなかったもの」と想定し、それに気づくことも、ひとつの前向きな解決方法なのではないか?
日本人としての自信や誇りなど、もともとなかった。
領土問題とかで、急に慌てふためいているだけにすぎない。
才能だって、幸福だって、彼の愛だって、そんなものがあったのかどうかさえ怪しい。
お涙ちょうだいのセンチな物語も、悲しい記憶も、「持っていた」と思い込もうとしていただけだったのかもしれない。
それなら開き直って、今、この手に持っているものを利用して生きていけばいい。
脱いだり着たり、捨てたり、願ったり、本当に欲しいものは、そんな安易に手に入れられるものではないのかもしれない。
小林秀雄は、モーツアルトの音楽について、このように続けている。
あることを成就したいという野心や虚栄、いや真率な希望さえ、実際に成就した実際の仕事について、人を盲目にするものである。大切なのは目的地ではない。現に歩いているその歩き方である。モーツアルトは歩き方の達人であった。モーツアルトは、目的地など定めない。歩き方が目的地を作り出した。彼はいつも意外なところに連れて行かれたが、それまさしく目的を貫いたということであった。彼の自意識の最重要部が音で出来ていたことを思い出そう。
目的地を持たず、自由気ままに奏でられた音。
これぞ、水瓶座=天王星のモーツアルトの音楽の楽しみ方なのかもしれないね。
はじめから持っていなかったものはたくさんある。
後悔もある。
それでも少ない荷物で生きられるなら、それはそれで楽しい道のりになるのかもしれない。
無理に持っているようなふりをしなくてもね。
三島由紀夫が「芸術」と評した彼の文章は、ネットの記事に慣れてしまった私の目に、とても新鮮で、とても重みがあるものとして映った。
すべての文章に無駄がなく、クソ暑い夜の読書にはふさわしくないほど濃密だ。
「モーツアルト」の章に、こんなことが書かれていた。
反動というものには、いつも相応の真実はあるのだろうが―――無用な装飾を棄て、重い衣装を脱いだところで、裸になれるとは限らない。何も彼もあまりたくさんのものを持ち過ぎたと気がつく人も、はじめから持っていなかったものには気がつかぬかも知れない。
これは、古き良き時代に帰るべきだという人たちの言い分を批判した文章であったが、なるほど、そういう考えもあったかと唸ってしまった。
時代は流れている。
昔は良かったと懐かしんでみても、果たして実際、私たちは何かを手にしていたのかどうか。
先日、渋谷駅前でどこかの大学生たちが「私たちに欠けてしまっているのは日本人としての自信です。今こそ、私たちは自信を取り戻さなくてはいけません」と大演説をやっていたが、私にそんなものがあったのかどうか。
はじめから、そんなものは持っていなかったのではないだろうか。
私たちは、未来に対する可能性とか、潜在的な能力とか、幸福になるための術とか、存在しているのかどうかわからないものをムキになって信じ込もうとしているふしがある。
断捨離などもそうだ。
断捨離とは、不要な物などを減らし、生活や人生に調和をもたらすというものだが、今は言葉だけがひとり歩きし、物を捨て、身軽になったら、人生が勝手に変わっていくような、そういう印象を持っている人が多い。
実際、物を手放せば、一時的に気分が軽くなることはあるだろう。
けれど、はじめから持っていなかったものが手に入るわけではない。
それに気づかず、新しい流れを作ろうと必死になったところで、すぐにまた次の壁がやってくることだろう。
ならば、「はじめから持っていなかったもの」と想定し、それに気づくことも、ひとつの前向きな解決方法なのではないか?
日本人としての自信や誇りなど、もともとなかった。
領土問題とかで、急に慌てふためいているだけにすぎない。
才能だって、幸福だって、彼の愛だって、そんなものがあったのかどうかさえ怪しい。
お涙ちょうだいのセンチな物語も、悲しい記憶も、「持っていた」と思い込もうとしていただけだったのかもしれない。
それなら開き直って、今、この手に持っているものを利用して生きていけばいい。
脱いだり着たり、捨てたり、願ったり、本当に欲しいものは、そんな安易に手に入れられるものではないのかもしれない。
小林秀雄は、モーツアルトの音楽について、このように続けている。
あることを成就したいという野心や虚栄、いや真率な希望さえ、実際に成就した実際の仕事について、人を盲目にするものである。大切なのは目的地ではない。現に歩いているその歩き方である。モーツアルトは歩き方の達人であった。モーツアルトは、目的地など定めない。歩き方が目的地を作り出した。彼はいつも意外なところに連れて行かれたが、それまさしく目的を貫いたということであった。彼の自意識の最重要部が音で出来ていたことを思い出そう。
目的地を持たず、自由気ままに奏でられた音。
これぞ、水瓶座=天王星のモーツアルトの音楽の楽しみ方なのかもしれないね。
はじめから持っていなかったものはたくさんある。
後悔もある。
それでも少ない荷物で生きられるなら、それはそれで楽しい道のりになるのかもしれない。
無理に持っているようなふりをしなくてもね。
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