遅ればせながら、今日、「The act of killing」を観てきた。
1965年、インドネシアで「共産党員狩り」と称した大虐殺が行われ、100万人以上が殺害された歴史を追った作品。
当時、虐殺に関わったというチンピラや政治家たちを追いかけ、彼らにその時の行動をカメラの前で演じさせて再現するという手法をとった衝撃のドキュメンタリー映画。
観た人いるかしら?
かなり評判は高かったみたいだし、インドネシアの政治の闇が垣間見れて、そういった意味では価値があるかもしれないけど、後半は映画監督=聞き手のあくどさが見え、別の意味で我が身を振り返ることになったりした。
結局、ドキュメンタリー作品のほとんどは、作り手の意図や思惑で真実を脚色してしまうものだ。
または、相手の思惑により、真実から遠く離れてしまうことも、時にある。
「ドキュメンタリーは嘘をつく」の著者・森達也が、同映画に対し、「でも、やがてあなたも気づく。自分はスクリーンではなく鏡を見ているのだと」とコメントしたのが納得できる。
作品中、「俺たちはサディストだ」というセリフが何度も出てきて、サディスト風な流れがどんどん出てくるのだけれど、でも、一番のサディストはこの監督かもしれないなと思う。
カメラは暴力であり、権力でもある。
けれど、今の仕事も結局、同じような怖さを持っているのかもしれない。
こちらの導き方ひとつで、どんな真実も作り出すことができる。
こちらが意図すれば、どうとでも真実らしく見えるものを引っ張り出してくることができる。
「見えないものが見える」という力を使えば、どうとでもできる。
森氏が、「ドキュメンタリーとは世界そのものとの向き合い方であり、それは強烈なエゴに支えられた表現行為である。そこでは形式的な「客観性」や「公正さ」などさほどのプライオリティを持ち得ない」と語ったように、この仕事も、強烈がエゴに支えられている面が大いにあると思う。
この仕事をしていて、支配欲求や全能感を全く感じないという人はいないだろう。
だからこそ、「術」をどのように磨き、どのような方向で利用していくのか。
常に問い続ける必要があるかもしれないね。
1965年、インドネシアで「共産党員狩り」と称した大虐殺が行われ、100万人以上が殺害された歴史を追った作品。
当時、虐殺に関わったというチンピラや政治家たちを追いかけ、彼らにその時の行動をカメラの前で演じさせて再現するという手法をとった衝撃のドキュメンタリー映画。
観た人いるかしら?
かなり評判は高かったみたいだし、インドネシアの政治の闇が垣間見れて、そういった意味では価値があるかもしれないけど、後半は映画監督=聞き手のあくどさが見え、別の意味で我が身を振り返ることになったりした。
結局、ドキュメンタリー作品のほとんどは、作り手の意図や思惑で真実を脚色してしまうものだ。
または、相手の思惑により、真実から遠く離れてしまうことも、時にある。
「ドキュメンタリーは嘘をつく」の著者・森達也が、同映画に対し、「でも、やがてあなたも気づく。自分はスクリーンではなく鏡を見ているのだと」とコメントしたのが納得できる。
作品中、「俺たちはサディストだ」というセリフが何度も出てきて、サディスト風な流れがどんどん出てくるのだけれど、でも、一番のサディストはこの監督かもしれないなと思う。
カメラは暴力であり、権力でもある。
けれど、今の仕事も結局、同じような怖さを持っているのかもしれない。
こちらの導き方ひとつで、どんな真実も作り出すことができる。
こちらが意図すれば、どうとでも真実らしく見えるものを引っ張り出してくることができる。
「見えないものが見える」という力を使えば、どうとでもできる。
森氏が、「ドキュメンタリーとは世界そのものとの向き合い方であり、それは強烈なエゴに支えられた表現行為である。そこでは形式的な「客観性」や「公正さ」などさほどのプライオリティを持ち得ない」と語ったように、この仕事も、強烈がエゴに支えられている面が大いにあると思う。
この仕事をしていて、支配欲求や全能感を全く感じないという人はいないだろう。
だからこそ、「術」をどのように磨き、どのような方向で利用していくのか。
常に問い続ける必要があるかもしれないね。
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