いつも、よい質問をしてくれるNさん。
ありがとうございます。
まずは、質問から。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
同じように鑑定しても、この人にはきちんと問題点を明確にし、その問題に合ったアドバイスをする事が出来、すっきりして帰らせる事が出来た。
この人にはあまり、問題点に沿った鑑定が出来なかったから、ただ鑑定して、可もなく不可もなく、終わったという感じになってしまった。
すらっと読み解く事が出来る日もあれば、出来ない日もあるようで、これはいけないですよね。
経験を重ねれば安定してくるのでしょうか。
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私も、いまだ同じように、毎回自問している。
Nさんが書いているように、経験を重ねれば安定するかと思いきや、見る視点が変われば、やはり毎回、ちゃんとできているかを不安に思う。
鑑定は、相手あってのこと。
「できた」「できている」という自信が持てる日は、きっと来ないだろうと思う。
しかし…
鑑定の良し悪しって、誰がどう判断するのだろうか。
私? それともクライアント?
そもそも、鑑定の良し悪しの基準はなんだろう。
まだ駆け出しのころ、心の支えにしていた本がある。
遠藤裕乃著「ころんで学ぶ心理療法」だ。
講座でも、この本から学んだことを伝えることがよくある、私にとってとても大切な良書である。
本の中に、「面接になれたと思ったら――よい子のクライアントの落とし穴」という章があった。
そこには、こんなことが書かれていた。
ある日、理想的と思えるクライアントがやってきた。
セラピストの介入を生かして自己理解を深める能力を備えていて、「手ごたえ感」や「素朴な援助欲求」を感じることができるクライアントである。
とてもいいかたちで面接が行われ、最後には、「これまでのやり取りがクライアントの成長に役立った」という達成感を味わうに至った。
しかし、何か腑に落ちない点があり、クライアントとの面接を振り返ってみたところ、「もしかしたらクライアントは、セラピストに合わせてよい子を演じていたのもしれない」という疑問がでてきたという。
そして、クライアントと同じようにセラピストも「よいセラピスト」をやっていた、。
よいクライアントと、よいセラピストが一緒にになって、お互いにほめ合うような理想的な関係を作り上げて、ふたりとも気持ちのいい関係にひたって満足していただけではないか。
これは、鑑定をやっているとよく出会うシーンだ。
著者は、「順調な時ほど用心を」として、よい子を見逃さないチェックポイントをいくつか挙げている。
・面接終了後に「今日もいい面接だった」と達成感を味わっている。
・クライアントがセラピストの介入を素直に受け入れ、どんどん洞察を深める
・他のクライアントも、このクライアントと同じようであればいいのにと思う
・ふたりの間に陰性感情がわき起こることがほとんどない
・自分は有能なセラピストだと感じて、気分がよくなることがある
・クライアントのことを「なんてよい人だろうと思う」
・クライアントが、「先生のおかげでよくなりました」など、感謝の言葉を繰り返し述べる
などなど。
思い当たる節、あるよね。
私にとって「よい鑑定」が、果たして相手にとってよい鑑定なのかどうか。
良し悪しを短期的な視野で考えるのは難しいのではないかと、私は思っている。
今日の鑑定が、クライアントの人生にどう影響するのか。
それは実際のところ、判断するすべがない。
だからこそ、今の自分にできることに専念することだ。
うまくできたかどうかを気にするのではなく、悔いのないよう、一回一回の鑑定に集中する。
それ以上の方法は、私には考えられない。
余談だけれど、オイリュトミーの寺崎先生と話としていた時、”うまく踊る”ということについて話していた時、「それが不思議なもので、ステージでうまく踊れたと思ったときは、お客さんの反応があまりよくなくて、今日は失敗だったと落ち込んでいたら、今までで一番よかったと褒められたりする。だから、うまく踊るということがどういうことかわからない。結局、毎回、一生懸命踊るしかないんだかと思っている」と言っていた。
何事も、良し悪しの判断をしないことだ。
自分の判断も、人の判断も頼りにはならない。
「今」を一生懸命やる。
それが、私に出せる回答かしら。
ありがとうございます。
まずは、質問から。
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同じように鑑定しても、この人にはきちんと問題点を明確にし、その問題に合ったアドバイスをする事が出来、すっきりして帰らせる事が出来た。
この人にはあまり、問題点に沿った鑑定が出来なかったから、ただ鑑定して、可もなく不可もなく、終わったという感じになってしまった。
すらっと読み解く事が出来る日もあれば、出来ない日もあるようで、これはいけないですよね。
経験を重ねれば安定してくるのでしょうか。
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私も、いまだ同じように、毎回自問している。
Nさんが書いているように、経験を重ねれば安定するかと思いきや、見る視点が変われば、やはり毎回、ちゃんとできているかを不安に思う。
鑑定は、相手あってのこと。
「できた」「できている」という自信が持てる日は、きっと来ないだろうと思う。
しかし…
鑑定の良し悪しって、誰がどう判断するのだろうか。
私? それともクライアント?
そもそも、鑑定の良し悪しの基準はなんだろう。
まだ駆け出しのころ、心の支えにしていた本がある。
遠藤裕乃著「ころんで学ぶ心理療法」だ。
講座でも、この本から学んだことを伝えることがよくある、私にとってとても大切な良書である。
本の中に、「面接になれたと思ったら――よい子のクライアントの落とし穴」という章があった。
そこには、こんなことが書かれていた。
ある日、理想的と思えるクライアントがやってきた。
セラピストの介入を生かして自己理解を深める能力を備えていて、「手ごたえ感」や「素朴な援助欲求」を感じることができるクライアントである。
とてもいいかたちで面接が行われ、最後には、「これまでのやり取りがクライアントの成長に役立った」という達成感を味わうに至った。
しかし、何か腑に落ちない点があり、クライアントとの面接を振り返ってみたところ、「もしかしたらクライアントは、セラピストに合わせてよい子を演じていたのもしれない」という疑問がでてきたという。
そして、クライアントと同じようにセラピストも「よいセラピスト」をやっていた、。
よいクライアントと、よいセラピストが一緒にになって、お互いにほめ合うような理想的な関係を作り上げて、ふたりとも気持ちのいい関係にひたって満足していただけではないか。
これは、鑑定をやっているとよく出会うシーンだ。
著者は、「順調な時ほど用心を」として、よい子を見逃さないチェックポイントをいくつか挙げている。
・面接終了後に「今日もいい面接だった」と達成感を味わっている。
・クライアントがセラピストの介入を素直に受け入れ、どんどん洞察を深める
・他のクライアントも、このクライアントと同じようであればいいのにと思う
・ふたりの間に陰性感情がわき起こることがほとんどない
・自分は有能なセラピストだと感じて、気分がよくなることがある
・クライアントのことを「なんてよい人だろうと思う」
・クライアントが、「先生のおかげでよくなりました」など、感謝の言葉を繰り返し述べる
などなど。
思い当たる節、あるよね。
私にとって「よい鑑定」が、果たして相手にとってよい鑑定なのかどうか。
良し悪しを短期的な視野で考えるのは難しいのではないかと、私は思っている。
今日の鑑定が、クライアントの人生にどう影響するのか。
それは実際のところ、判断するすべがない。
だからこそ、今の自分にできることに専念することだ。
うまくできたかどうかを気にするのではなく、悔いのないよう、一回一回の鑑定に集中する。
それ以上の方法は、私には考えられない。
余談だけれど、オイリュトミーの寺崎先生と話としていた時、”うまく踊る”ということについて話していた時、「それが不思議なもので、ステージでうまく踊れたと思ったときは、お客さんの反応があまりよくなくて、今日は失敗だったと落ち込んでいたら、今までで一番よかったと褒められたりする。だから、うまく踊るということがどういうことかわからない。結局、毎回、一生懸命踊るしかないんだかと思っている」と言っていた。
何事も、良し悪しの判断をしないことだ。
自分の判断も、人の判断も頼りにはならない。
「今」を一生懸命やる。
それが、私に出せる回答かしら。
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