nicosmic life --- 心理占星術と未完成な日々

私たちは誰でも宇宙のエネルギーを利用することができる
結局、人はそれぞれの鍋に返る
ここ1か月、麻里さんに思い出させてもらった石垣りんの「私の前にある鍋とお釜と燃える火と」の詩と、最近のコンサルテーションを合わせて考えていた。
または、友人や自分自身のことについても。
今日の70歳を前にした男性のコンサルテーションもそう。
結局、人はそれぞれに鍋に返っていくのだ。
自分の力にかなう鍋。
この世に生まれ、育ち、外界から刺激を受け、傷つきもすれば成長もし、自分以外の何かになろうと必死に努力し、挫折し、けれど生き続け、65年の時が過ぎ、自分の扱い慣れた鍋に戻っていく。
その鍋にたどり着くための近道はなく、それがどのような鍋なのか、誰にも知る由もなく、私自身しかその鍋の存在を知らないのだけれど、もしかしたら、自分自身もその鍋の在処を忘れてしまっているかもしれないが、やはり人はいずれ、その鍋=本性に返ることになるのだろう。

コンサルテーションでは、その鍋の存在を伝えることくらいしかできない。
その鍋は最初に受け取った鍋そのままではなく、外界にさらされ姿かたちを変えているかもしれず、だから、なかなかその存在に気づけない。
占星術の分析では、月ーIC、土星ーMCが鍋にあたるだろうが、自らを明るく照らす太陽の力によって、その存在が明らかとなるだろう。
それがどこにあり、どんなものなのかは、私の力だけでは見つけられない。
長い年月をかけて、自分で育て続けなければならないものなのだ。
だから、その鍋は当然、この世でたった一つの色彩を放っている。

私にインスピレーションを与えてくれた石垣りんの詩はこちら。

「私の前にある鍋とお釜と燃える火と」

それはながい間
私たち女のまえに
いつも置かれてあったもの

自分の力にかなう
ほどよい大きさの鍋や
お米がぷつぷつとふくらんで
光り出すに都合のいい釜や
劫初からうけつがれた火のほてりの前には
母や 祖母や またその母たちがいつも居た

その人たちは
どれほどの愛や誠実の分量を
これらの器物にそそぎ入れたことだろう
ある時はそれが赤いにんじんだったり
くろい昆布だったり
たたきつぶされた魚だったり
台所では
いつも正確に朝昼晩への用意がなされ
用意の前にはいつも幾たりかの
あたたかい膝や手が並んでいた

ああその並ぶべきいくたりかの人がなくて
どうして女がいそいそと炊事など
繰り返せたろう?
それはたゆみないいつくしみ
無意識なまでに日常化した奉仕の姿
炊事が奇しくも分けられた
女の役目であったのは
不幸なこととは思われない
そのために知識や 世間での地位が
たちおくれたとしても
おそくはない
私たちの前にあるものは
鍋とお釜と 燃える火と

それらなつかしい器物の前で
お芋や 肉を料理するように
深い思いをこめて
政治や経済や文学も勉強しよう

それはおごりや栄達のためでなく
全部が
人間のために供せられるように
全部が愛情の対象あって励むように

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私を理解していくれる場所はどこだろうか。
私が育てるべきもの、養育すべきものは何だろうか。
子供だろうか、大人だろうか。
人ではなく、植物や動物か。
会社やチームか。
言葉や知的な活動だろうか。
音や色だろうか。

自分の私的感覚にかなう鍋と、私を燃やすエネルギーが理解できたとき、人は自身の存在の意義を実感できるのだ。

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